今回も「今週のお題」からなのだが、

『仕事ができるけどキライなヤツと仕事ができないけど好きなヤツとでは、

どちらといっしょに仕事をしたいか?』

という【究極の選択】らしいのだが、

もうね、これに迷う時点でビジネスパーソン失格っていうか、

仕事ができない人と組む時点で負けること必定。


そもそも、仕事に自分の感情や主観を持ち込む時点でダメだ。

ビジネスは理性と客観性である。

「この会社好きだから株を買おう」

なんて投資をする間抜けはいない。いたら大損だ。


俺もそうだし、おそらく世の中のほとんどの人がそうだが、

みんな自分が食うために働いている。

四の五の言ってられないのが現実だ。


自分が成功するためには、私心を殺すことも必要である。



俺だって、上司に説教されたくないし、

本心を言えばたまにムカつくこともあるが、

そんなことを無視できるくらい上司は仕事ができる人物であり、

この人を目標にしてキャリアアップをはかりたい、と考えている。



故事にこんな話がある。

漢の高祖劉邦は配下の推薦で陳平という人物を召抱えることになった。

陳平は実兄の妻と通じたり、賄賂なども受け取るような人となりであった。

これを知った劉邦は、陳平を薦めた配下を呼びつけて怒鳴りつけた。


「よくもあんな食わせ者を!!」

「しかし、殿。今必要としているのは人格者ですか?

本当に必要なのは天下を取ることのできる人物でございましょう」


その配下の諌めた通り、陳平は宿敵項羽との戦いで、

何度も危機を救う献策をしたのだった。

結果、劉邦は項羽を破って天下を取り皇帝になった。


対照的に、項羽は自分の気に入った人物だけで周りを固め、

最終的には配下のほとんどが離れていき、滅んだ。




一人のビジネスマンとして、社会と向き合っているならば、

私心を殺して、キライなやつとでも一緒にやっていかなければならない。

会社は学校ではない。

遊びにきているのではなく、働きにきているのだ。

仲良しこよしがやりたいのなら、プライベートでやれば結構。


また、仕事ができる人間の周りには、

自然と私心を殺すことの出来る優秀な人材が集まってくる。

好きだからとか、人柄がいいからとかで人が集まっても、

会社が発展するわけがない。

いかに稼いで儲けるかなのだ。


そして、人間性とか好き嫌いだけで人材を選んでいるような企業が、

この厳しい時代に生き残っていけるとは、とても思えない。



読者諸氏なら劉邦になるか。

それとも項羽のような道を歩むか。


別にこの現代社会で滅ぶとかそういうのは言いすぎかもしれないが、

答えは至極簡単ではないか?

さて、奇しくも本日9.11。

衆議院総選挙である。


4年前の同じ日、世界史の流れがあのテロによって一挙に変わってしまったが、

本日日本の流れは果たして変わるのだろうか?


自民党が利権にまみれた守旧派を放逐して膿を出し、

改革を推し進めようとする一方、

民主党の動きもなかなか活発である。

また、放逐された旧自民党勢力も、

小泉政権に対して対抗すべく各地で戦いを繰り広げてきた。



これほどまでに政治に注目が集まったのは、

久方なかったことであろう。




こんな面白い事態に参加しない手はない!

チャンスである。

左右各論、保守問わずに、ここで投票という声を挙げずして、

いつ声を挙げるというのだ。




選挙に行こうぜ。

タイトル未設定

【あらすじ】

終戦直後、戦いを継続しようとしている部隊を説得すべく、水島上等兵は危険な任務を受けてビルマの山奥へ向かったまま、戻ってこなかった。井上部隊員たちは彼の帰還を信じて待っていた。しかし、水島には日本に戻れぬ理由があった。彼は土になってビルマに残る同胞たちを捨ててはいけなかったのだ。水島は日本に帰る隊員たちに別れを告げ、去っていった。「あぁやっぱり自分は日本に帰るわけにはいかない!」


この本を読んで、涙が止まらなかった。

戦争が終わって遠い故郷に帰るのを拒否してでも、

水島上等兵は自分の信念に基づいた選択をした。

それに対して純粋に心を打たれた。


選ぶべきは絆か、故郷か、それとも土になって残る同胞なのか。




深い河











【あらすじ】

いろいろな人がインドを目指す。ある人は戦友を供養するため。ある人は昔の知り合いと会うため。そしてまたある人は死んだ妻を探しに。しかしインドを訪れた人々も、インドに住む人々も救われることは決してない。それでも深い河は流れ続ける。全ての人間の全てを受け入れて。


人間と愛と宗教について、その答えの一つを提示した遠藤周作の集大成。

神は、河は全てを受け入れてくれる。

世の中にはいろんな人がいるが、お前はそれでいい。


悲しい物語なのに、少し救われた気分になるのはどうしてなんだろう?




【あらすじ】

中国での男女のバカバカしいケンカが発端となり、偶発的に核戦争が勃発した。そして、全人類の命をかけたこれまたアホらしい大騒ぎが始まった。放射能を避けて、少しでも長く!人を押しのけてでも!とにかく自分だけは生き残りたい!死を前にして人間はどこまでも人間らしくなくなっていった。スラップスティックコメディアルマゲドン


こんなに悲惨な小説は読んだことがなかった。

とにかく最初から最後までドタバタ。

核戦争が起こっているというのにドタバタ。

エゴの固まりとなった人間のなんと愚かしいことか。


きっと人類の最後ってこんな感じなんだろうと、

自己中心的な自分を省みて確信してしまう。


深く考えて欲しい。

我々が常に正しいとは言えないのと同時に、

ホワイトバンド運動を主催するNGOも正しいとは言えないのだから。



そもそも、どうしてはなから俺が、ホワイトバンド運動について否定的かと言うと、

主催するNGO団体の社会的信用がないからだ。


とくにピースボート が参加しているのが気になる。

彼らはNGOの皮をかぶった親北朝鮮派のロビイストである。

しかも、会計報告が不明瞭なのも有名な話だ。

さらにピースボート 以外にも、イデオロギー的に偏った団体が参加している。



「でも理念が正しいのだからいいじゃないか」

という意見もあると思う。


しかし、はっきり言うが、彼らが金を集めて、人を集めて、

本当に貧困に苦しむ子どもたちのためになるようなことをする保障が、

どこにあるというのだ?

前にも書いたが、活動費という名目で、

飲み食いに使われたとしても、文句は言えない。

それでもいいのか?



その証拠か、世界同時のプロジェクトのくせに、

日本だけ、ホワイトバンドの値段が三倍という事実

これを考慮すると、サイトで報告されていた製造原価などの内訳も、怪しくなってくる。

疑い始めたらキリがない。


それに思想的に偏ったNGO団体が、

募金を横領したという前科があるのは本当だ。

それでも彼らの言っていることを信じれるのか??


北朝鮮の民衆を飢餓に追い込んでいるような金正日を支持している

ピースボート が、アフリカで苦しんでいる人々を救うわけがない。





このプロジェクトを立ち上げたNGOに腹が立つ。

人の善意を利用して資金集めをするなど言語道断。


偽善などではない、悪そのものだ!





もうこれ以上、ホワイトバンドについて書くつもりはない。

俺はこんなところで声をあげることしかできないし、

彼らの行動を是正するための行動をとることもできないからだ。







俺はこれから、資本主義市場経済の中で、

一人のプレイヤーとしてどこまでいけるか、

試してみたいと思っている。


そして、俺がこの先やらんとしていることによって、

間接的にだが、貧困国をさらに貧困国へと追いやるかもしれない。

それでも俺はこの乗っかったゲームから降りるつもりはないし、

自分の生活を守っていくことで精一杯だ。

仏教が正しかったとしたら、来世は修羅界に堕ちるだろう。


そんな俺がこのような貧困を語るなど、

偽善であることは明らかである。


そう、俺もまた偽善者なのだ

偉そうなことを書く資格などはないのかもしれない。


しかし、ホワイトバンド運動を見て、声をあげずにはいられなかった。

それだけはご理解いただきたい。

ホワイトバンド運動に関して、

「うん、悪くない」

と書いたが、

ここのところ本屋に行くなりネットを徘徊するなりして、

いろいろな情報や意見を頭の中に叩き込んで整理すると、

自分のその発言を撤回したいと思うようになった。


3、そして、このチャリティによって得られた金の使い道は?

  運動の意味は?

今夜はこの疑問について、書こうと思う。




ホワイトバンド運動 において、勘違いしてはいけないのが、

このバンドを買ってもその売り上げが、

貧しい人々へは行かないということである。


サイトの方でも明言されているが、

「売り上げは寄付としてではなく、政策を変えるための活動費として使う」

このような主張がなされている。


「そうか、彼らは貧困をなくすために有効に動いてくれるのか」

という風に理解するのは、少々気が早い。

なぜなら、活動費として使われるというのなら、

彼らが活動のためだったと言えば、何に使ったってOKということでもあるからだ。


しかし、そこはさすがに、透明性のある会計報告をするともサイトに書いてあった。

「なるほど、それなら安心だ」

いやいや、間に受けるのも早すぎる。

会計報告というのは透明性だけではダメなのだ。

そこに、中立公正なる第三者による監査がなければ、

報告書にどんなウソを書いたとしても平気ということになる。


一応俺も、企業会計、監査に関しては勉強してきたし、

これで金をもらって食っている。

だから俺は、ちゃんとした説明がなされない限り信用しない!


少し前に、寄付で集まった金が横領されるという事件があった。

これはNGOの手によってである。

NGOと言えば聞こえはいいが、彼らとて我々と同じ人間である。

彼らがNGOで、誰かを救うために頑張っているのかは知らないが、

それだけで彼らを信用するわけにはいかない。


また、監査、何に使ったかだけではない。

使った金によって、どんな結果を出したかについても、

同様に報告が必要である。


株式会社も、株主に出資してもらって、

どのように金を使って、どんな結果(利益)を出したのか、

職業公認会計士による厳正な監査を受けて、

報告書が認められるのである。

それは、金を出してもらってるのだから当然である。


そして、今回の運動の場合、人の善意に訴えて金を集めたのだから、

その道義的責任はある意味企業よりも重い。


もし、真っ当な監査を受けないのであれば、

単なる資金集めと揶揄されてもそれは当然である。


この運動に参加するNGO諸団体が、

厳正なる監査を受け、一円単位までの金の使い方、

それから、どういう具体的な成果を出したか、

さらに、それらを広く公表する。

これらが実現することを願ってやまない。





それでは、この運動の意味自体はどうなのであろうか。

結論から言う。

無意味。

しかも救われるのは貧困に苦しむ子どもではなく、

この運動に乗っかって儲けた業者。

理由は以下に述べさせてもらう。



「この状況を変えるには、お金ではなく、あなたの声が必要です。貧困をなくそう、という声を表すホワイトバンドを身につけてください」

(以上サイトからの引用)


一見素晴らしいことを言っているようであるが、問題なのである。


また、この運動に興味を持つようになって、いろいろなブログで、

様々な方々のご意見を読ませてもらった。


「一人一人の声は小さくても集まれば大きな力になる」

「問題に関心を持つことが大事」

「貧困問題を浸透させた功績が素晴らしい」


などなど、確かにそうだとは思う。


だが、サイトに載っていた文章にしても、

様々な方の意見にしても、

とても大事なことが抜けている。


それは、具体性

声をあげて、力を集めて、それを一体どうするのかという具体性


サイトでも、

「政策はこれから考える」

と書いてあった。


馬鹿にするなと言いたい。


大きな力を集めて、G8首脳に対してアピールするといってるが、

アピールしてどうなるのだ?

それよりも、こうすれば貧困はなくなる!

といった政策を提案すべきなのである。

(ただし、現実的なもの)



だが、今まで各国政府も、ユニセフも、何もしてこなかったと言いたいのか?

それは違う。

現在に至るまで何年も、数千億ドルに及ぶ援助をしてきたはずである。


それに対して、効果のある援助ができていないからだ、

彼らは言っているのだが、

それなら、さっさとあんたらが対案を出せよといいたい。


大体、そんなに各国政府が無能だったのか?

そこに、貧困問題のスペシャリストがいなかったとでも言うのか?



大きな声が歴史を動かしてきたのは事実だ。

しかし、それは具体的な行動が伴った場合に限る


一人一人の声が集まって、大きな力になっても、

具体的な最善の解決策がないかぎり、

いつまで経ってもアフリカの人々は救われないのである。


こんな白いバンドなんぞ買わずに、

昔からこの問題について積極的に活動し、

経験も知識もあるユニセフに寄付したほうが、

きっとたくさんの子どもたちが救えるだろう。


そもそも、芸能人とかメジャーなスポーツ選手を使うなら、

ユニセフに募金をするようにアピールさせた方がよかったのだ。

あるいは、有効な政策を編み出してからの方がこういうキャンペーンをした方がよかったのだ。



もし、ホワイトバンド運動を主催するNGOが、

本当に有効な解決策を打ち出せるのだとしたら、

俺も賛同する。


だが、できてないから、賛同しない。

300円のうち、70パーセントが慈善活動とは関係ない、

業者の手に渡ってしまうのならなおさらだ。

(次回、これまで主張の総括をします)

『断っておきたいのだが、以下に書くのは

限りなく合理性を追求した観点に基づいた主張である。

そして、決してこの運動に賛同する人々の善意を踏みにじろうという意図はない』


そのように昨日の記事にて書いた。

しかし、貧困国の現状や、ホワイトバンド運動の実態を調べるうちに、

この運動全体を見直すべきなのではないかと思うようになった。


確かに、貧困の上に成り立つ豊かさが存在し、

我々がその上にいるのは事実なのであるが、

1、これらの貧困の負のスパイラルの構造を、

その責任と原因を先進国にだけ求めて良いのだろうか?


2、あるいは、構造を変えることのできる実現性は?


3、そして、このチャリティによって得られた金の使い道は?

  運動の意味は?


論点をこれら3つに絞って、主張を続けたいと思う。




まず、1の貧困の責任と原因について。


前の記事において書いたように先進国の経済的支配によって、

多重債務を貧困国が抱えている現実がある。

では、それを帳消しにしてやればいいのかと言えば、

それで問題が解決するとはとても思えない。

問題は、彼らがそれで自立できるかだ


俺は根本的な問題を、貧困国自身に求める。

援助をしたところで、貧困が根本的に解決するとはとても思えない。

この運動でも、援助でなく構造を変えるための働きかけをする、

というような目的もあるらしいが、

アフリカ各国の現状を知らないのかと、俺は言いたい。


彼の国々では、たいてい独裁者と特権階級がのさばっているか、

政府軍とゲリラが戦っている。

アフリカのある独裁者は世界の金持ちベスト10に入るそうだ。

ならば、その独裁者がまず責任をとって散財しろといいたい。

無論、そんなことをする独裁者がいるとは思えないが。


そして、民衆も勤労意欲がほとんどない。

青年海外協力隊のエッセーや、南北問題に関する本を読んでみたが、

アフリカにないのは、何より人材らしい。

はなから援助を期待して、先進国が金を自分たちに恵んで当然だと考えている

人々もいるということだ。

援助をすればするほどそれに甘えて生産性が落ちるというジレンマもあるらしい。




それでは2の構造を変えるとするならば、

まず、イラク戦争のような争いを再びどころか何度も起こして、

無為無策な独裁者と特権階級を倒す必要がある。

そしてその戦争が終わった後に、隅々まで教育を行き渡るようにする。


そのような荒療治を行えば、さらに多くの人が死ぬことになるが、

将来的に見れば効果は最善である。

しかも一番手っ取り早い。

だが、そんなことできるわけがない。

彼らの国で独裁政権を倒すべく、

革命を始めるとしても、多くの血が流れることは必然だ。


独裁者を倒すためのイラク戦争でさえ、あんなに非難されたのだ。

誰が戦争を起こすことに賛同する?




そもそも考えて欲しい。

日本が戦争直後、恐ろしく貧乏で焼け野原だったことを

さらに、賠償金という名目で、多額の金を払わなければならなかったことを。


我々の祖父母は援助や構造を変えるなどによって、

ここまで日本を発展させたか?

否、ただ努力によってのみである。


だから、アフリカの貧困に苦しむ人々にも、

まずは努力しなければならないことを訴えるべきだ。

彼らが、我々を打ち負かせるくらいに発展するだけの、

命がけの努力をまずすべきなのだ。


我々の祖父母も両親も、

過労死や借金苦で自殺するほどの努力をしてきたのだから。



さらに続く

「あぁー書くんじゃなかったこんなこと」

俺の内なる私的な声が聞こえてくる。

実際、前の記事を書いた昼から今の時間まで、

少々考察を続けてきたが、

貧困と人口爆発に関わる問題は多数の要素が複雑に絡み、

経済、人口論、史学、哲学、科学、社会学、宗教、人類学etc

これらすべてに通じていなければ、語りつくせる内容ではない。


シンプルに、

「別にいいじゃねーか、いいことするんだからよ」

という風にまとめることも考えたが、

皆が諸手を上げて賛同しようとする事柄に、

疑問を投げかけて「おいちょっと待てよ」とするのが、

俺のスタイルである。


今まで知りえた情報と、信念によって続きを書こうと思う。

では本題に。





さて、貧困と人口爆発の負のスパイラルについては↓で述べたが、

これは、今そこにある危機なのであって、

我々人類に残された時間は限りなく少ないと思われる。

50年を短いと思うか長いと思うかは別にして。


また、近年グローバル化が推し進められてきた。

グローバル化、聞こえは横文字で、なんかこう世界が一つで、

これから先いろんな国に行けて、いろんな国の人がやってくる!

という感じで人々にはポジティブに受け止められているようだ。


しかし、グローバル化の実態とは、

経済障壁を緩和して、経済強国も貧困国も公平な競争のもとで戦う、

ということである。

これを例えると、幼稚園児と大の大人が同じリングの上で戦うことを強いられるようなものだ。


もちろん我らが日本も、国と国との経済戦争の最中に、

今まさにいるのである。

そして、この経済戦争のプレイヤーは、

我々のような小市民も含まれる。


つまり、間接的にではあるが、

貧困国の人々と、経済構造の中で戦っているのだ。


根源的な問題として、富とは貧困の上にしか成り立たない

よって、我々日本人が、こんな豊かな生活を送れるのも、

一方で、世界のどこかで悲惨な生活を送っている人々がいるからなのである。


一番わかりやすい例として、為替レートがある。

貧困国での一日分の食事と、

我々が食う一日分の食事では仮に質と量が同じものだとしても、

為替レートの存在によって値段が違う。

考えてみればおかしな話である。

実態とは必ずしも一致しないのが資本主義市場経済だ。

価値を決める絶対的なものは存在せず、

相対評価によって、状況が変わってくるのが、

この経済構造の本質なのである。



ということは、貧困国を救済のに一番早い近道は、

我々が豊かさを捨てることだ。


夏はエアコン、冬は暖房、365日コンビニは開いていて、

どこへ行くにも乗り物を使って、食事はとにかくうまいもの。

だけど、毎日同じのじゃ飽きる。

朝晩風呂に入りたいしそれからキレイに着飾って、

ヒマな時間はネットにつないで・・・


これらを捨てることができるだろうか?

極論過ぎるかもしれないが。



ここで一言言いたい。

こんな発言をすれば、非難されるかもしれないが・・・。

これだけは言いたいのだ。


さんざん貧しさの上に成り立った豊かな生活を享受しておいて、

今更何をいうのだ!そういう無思慮な偽善に腹が立つ!!



せっかくいいことを、大きな取り組みの中でやろうとするんだから、

もっと広く深く考えようよ。

世界の現状と、それにつながる自分のことを。


続く

ホワイトバンド なる運動が、巷で話題になっているようだ。

うん、悪くない。

貧困を金の力でなく、声をあげることによってなくそうという試みが新しい。


人間の声、というのは偉大な力を持っている。

また、歴史を作ってきたのも声の力である。

英雄や指導者、あるいは民衆の声によって、

人類は進歩と悲劇と、建設と破壊を繰り返してきた。


この『声の力』による試みによって、善意によって、人々が救われたなら、

それはとてもすばらしいことだ。




しかし、俺の斜に構えた『声』が俺の内から、

一つの矛盾に対する疑問を伴って、生まれてくる。


断っておきたいのだが、以下に書くのは

限りなく合理性を追求した観点に基づいた主張である。

そして、決してこの運動に賛同する人々の善意を踏みにじろうという意図はない。




「生めよ。増えよ。地を満たせ。地を従えよ」

旧約聖書の創世記において、記された一説である。

人間の生物的本能と、宗教的思想、

それら二つを矛盾なく包括したものだと思う。


しかし、旧約聖書が記述されたと言われる年代から3000年近く経った、

現代社会はどんな状況だろうか?

人口爆発が危惧され、全人類の総数は60億を超えてしまっている。

地球という星の物理的限界によって、人類の繁栄も量的限界にさしかかろうとしているのだ。


旧約聖書を記した人物は、よもやこんな状況になるとは想像もしなかったのだろう。

3000年近くも前では、世界の広さを知る由もない。



さて、この人口爆発によって、いくつかの問題が引き起こされる。


人口が増えることによって起こる食料問題、水不足。

経済のキャパシティの限界による貧困。

それからエネルギー問題、環境問題。


この問題の中で注目すべきなのは、貧困である。

ホワイトバンド運動では『貧困をなくして子どもたちを救う』という趣旨なのだが、


貧困緩和→死なずに済む子どもが増える→人口増加→更なる貧困


この負のスパイラルを想像してしまうのは、斜に構えすぎだろうか。

ただ現実的に考察しただけである。



その証拠に、このまま人口が増え続けると、2050年には90億人に達してしまうそうだ。

そこからさらに累乗的に加算されるとすれば、

その50年後、2100年、本来ドラえもんが誕生するとか言われてた22世紀になるころには、

きっと人類社会は破綻する。


生物的本能としても、神の言葉としても、人間が増えることはよしとされていたが、

ここに至ってバランスをとるべき必要性が生まれてしまった。


繁栄することによって近づく破滅。

この矛盾から目を離して、善意に基づく運動に賛同していいものなのだろうか。



続く

今日は20時まで残業。

2時間も余分に働けば¥3,000くらいにはなる。

疲れもほどほど金もほどほど。

このくらいが調度いい。



今日は土曜に書いた、予算変更受付業務の続き。

法的にどうかということを確認するため経理部のおっさんに電話。

「今日は忙しいから無理だ」

社会というのは厳しい。

社内であっても、それは同じこと。

新入社員だから甘やかしてくれるなんて期待はできないのだ。


しかし意気消沈している場合ではなく、

他にもたまった仕事を片付けなければならない。

上司に詰められないうちにとっとと。


そこそこにサボりつつ一所懸命獅子奮迅。

しかし和えなく定時に。

(しょうがねーか、また明日だな)

とか考えてたが、問屋は首を横に振る。

仕事が増えた、帰れない。


それだというのに会議机に連行される。

若手社員が4人ほど座っている。

なにやらこないだやってきた外国人上司の歓迎会の打ち合わせだそうだ。


「オサムくん、今度の歓迎会の司会、頼むよ」

そんなものは頼まれたくない。

「オサムちゃんにやって欲しいわー」

関西弁で頼まれたってダメだ。


うつむく俺に視線が集中する。

彼らにとってはすでに『俺=司会』が決定事項らしい。

いやだいやだボク恥ずかしいんだい。

とか答えるのはさすがに大人気ないのだがかといって自信満々に、

「ぃやります!!」

などと答えるのもどうかと思う。


ここは自信なさそうに承るしかない。

「・・・ぶっちゃけ自信ないですけど・・・わかりました。やります」

俺の勇気ある返答に、目の前の4人から笑顔がこぼれた。

始めから俺に決めていたくせに、畜生。


「押し付けられたみたいなのは嫌ですし、先輩方もそうですよね。

あくまで僕が希望したということにして下さい。大丈夫ですから」

一応虚勢ははってみせた。

俺って大人じゃーん、わはははは。

うまくこなせたらもっと笑おう。


社会人というもの、仕事が出来るだけではダメだ。

こういうことに対しても動じないくらいにならなければ。


仕事と司会のプレッシャー、ちょっとした色恋沙汰の痛手。

そういうのは一切見せずにたまに背中で泣こう。

強がりではなくて自然にそういうことができるように。


そういうのがいい男なんだろう、たぶん。

俺の所属している部は社内のコストを管理している部門だということは、

いつかこのブログにて書いたと思う。

今現在担当している業務も、予算と実績を管理していくものだ。


その担当している業務の一つに「予算変更受付」というものがある。

新たに追加する予算の承認や部門間の予算変更に対して、

それらが適切であるかどうか、チェックするのである。


当然カネのことなので、開発、生産、販売などの部門にかかわらず、

ナーバスな問題になってくる。

また、予算変更には大体の場合どこかの部門が失敗したことに起因している場合も多く、

その失敗内容についても根掘り葉掘り聞かなくてはならない。

するとやはり、その部門としては「新入社員のくせにうぜぇ」といった対応をしてくる。

そりゃ、自分たちの失敗をこれでもかと言わんばかりに聞かれたら、ウザイに決まってる。


以上のように、この業務は常に殺伐としている。

俺にとって、泥臭い業務はまだまだキツイ。

とは言え上司が「突撃しろ」という命令を下すので、

逆らうわけにはいかないのだ。

どっちにしても怒られるなら選択は至極簡単。




そして今日も今日で予算変更業務がやってきた。

いつも突発的に入ってくるのだ、こちらの都合も考えて欲しい。


今回はとある販売部門と開発部門が、

予算を巡って戦った結果についての変更なのだが、

書類を見る限り明らかにおかしい点がいくつかあった。

いい大人なんだから書類ぐらいちゃんとわかりやすく書いてくれ。

こんなデタラメな書類に判を押してしまえば、

国税局に責任を追及される恐れもあるのだ。


で、この書類にケチをつけるために開発部門の人としばしミーティング。

「なんでコスト削減に成功してるのに、失敗と見なされるんですか!」

泣き言を言う開発部員。

しばらく愚痴に付き合う。


すると本当に悪いのは販売であることが判明。

販売部門にも文句を言うべく、電話を取ろうとするも、

あえなく定時のブザーが鳴り響く。


月曜はどうやら修羅場になりそうだ。

販売と開発の戦いに、管理部門の俺が殴りこみ。

それも新入社員の。



ダーティな展開はやめて欲しいぜ。